バハイの死生観

 こういうのは本当は「仏教の死生観」とか「キリスト教の死生観」とかやるべきなんでしょうけど、いま勉強しているのがバハイ教なんだから仕方がない。自分の備忘録代わりにまとめておきます。

 少し説明すると、バハイ教というのはイスラム教を背景に150年ほど前に出発した宗教で、日本が明治維新とかやってた頃に「男女平等」「偏見の除去」「極端な貧富の差の排除」などを掲げていた恐ろしく先進的な団体です。現在ではNGOとしての性格も強く、識字率の向上などに努めていたりします。勧誘をしない(※1)ため日本での知名度は低いですが、世界には約600万人の信者がいます。

 以下は僕が勉強した限りでのバハイ教の死生観をまとめたものです。ただし、バハイ教では信者間での解釈に差がある(※2)ため、全てのバハイ信者にとっての共通理解とは言い切れないことを先にご了承下さい。


バハイ教における人間理解

・まず、バハイ教では人間存在を「肉体」と「魂」に分けて考えます。精神界(神の領域?)で生まれた魂が母親のお腹の中の胎児に宿って一人の生命がスタートします。(これは魂的な発光物体がフラフラ飛んできてお腹の中に入るわけではなく、正確に言えば「光を反映する鏡のような」関係です。光が魂であり、鏡が肉体です。光はどこか遠いところにあり、鏡がそれを映しています。人の死とは、鏡が割れて光を反射できなくなった状態のことです。しかし、鏡が割れても光は存在し続けます)

バハイ教では人生の目標を「神に近付くこと」と設定します。ここで言う「人生」とは肉体が死んだ後も永遠に続く「魂の生」も含んだものです。


バハイ教の死後観

バハイ教の死後観では「天国」や「地獄」はありません。神への遠近だけがあるとされます。

・肉体が死ぬと魂だけになります。そして、魂は神の方向に向けて永遠に「進歩」します(神の方向に近付きます)。

・イメージ的には、神がものすっごく遠くにいる状態を想像して下さい。死後の魂はそれに向かって少しずつ近付いていきます。善人であれ、悪人であれ、魂は必ず神に近付いていきます。ただし、その接近スピードに違いがあり、善人(正確に言えば「神への信仰を持つ者」)の方がそのスピードが速いわけです。

バハイ教に「地獄」はありませんが、この接近スピードが遅いことが「地獄の烈火そのもの」であると言います。イメージ的には、超超大好きな恋人の下に一刻も早く行きたいのに遅々として進まないもどかしさ寂しさ悲しさが「地獄の烈火のよう」なのではないかと思われます。

・人は死ぬことで「肉体」という物理的制約を解き放たれ、神に近づけるようになります。なので、死んでからが本番です。こう書くと死ぬことを賛美しているヤバイ宗教のような気もしますが、とはいえ人間いつかは死ぬんですから、死の意味を積極的に意味付けている(死を無闇に恐れない)とも言えます。また、死んでからが本番とはいえ、生きているうちは何の意味もないのかと言えばそんなこともありません。


バハイ教の生の意味

・では、バハイ教徒は生きているうちに何をするのかと言えば「死んでからの準備」をします。つまり、「魂が速く神に近づけるように」準備するのです。「神を信じること」「その教えを守ること」により、死後の魂のスピードは上がります。

・野球のボールをイメージして下さい。魂がボールです。このボールは手から放たれた後も減速せず、むしろ加速する不思議なボールです。そして、遥か遥か彼方には神がキャッチャーミットを構えて座っています。このキャッチャーミットに納まるのがボールの目的です。この時、そのボールを思いっきり投げるのが肉体の役目となります。

・神への信仰がしっかりしていればボールは思いっきり投げれます。なので、ボールは猛スピードで神の方へ向かいます。しかし、信仰がしっかりしてなければ体勢が崩れたり筋力不足だったりして、へろへろ球しか投げれません。バハイ教徒にとって生の意味とは、「思いっきりボールを投げること」なのです。

・ボールを投げるまでに許された時間には個人差があります。80歳で死ぬ人もいれば3歳で死ぬ人もいます。「しっかり準備して80年後に投げてね」という場合と、「悪いけど、キミ、3年後に投げてよ」という場合があるわけです。これは不公平な気がしますが、バハイ教徒は「オレたちは準備期間は長ければ長い程イイと思っちゃうけど、全知全能の神が3年で投げろって言ってるんだから3年で投げるのがベストなんだろうな」と考えます。(これはイスラム教に近い思考法と思われます。イスラム教では何か困ったことが起こった時に「オレたちには良く分からんが、こうするのがベストだと神はお考えなんだろう」と考えます)

・生は「ボールを思いっきりブン投げるため」の準備期間です。ですから、バハイ教徒は生の意味を軽視しません。ただし、あくまでも本番は死後であり、生はそのための準備期間に過ぎません。つまり、「ボールを思いきりブンなげる」ことは「生き続ける」ことよりも優先されます。

・例えばバハイ教では「冤罪による死刑」は仕方のないものと考えています。バハイ教は理性を重視しますが、「人間は間違いを犯すもの」とも考えており、裁判官や陪審員たちが理性を十分に働かせ偏見を排除して裁判に当たっても、それでも「間違って死刑にしてしまう」可能性は免れないと考えます(実際にそうでしょう)。死刑廃止論者は「だから死刑はすべきでない」と考えますが、バハイは「それでも社会秩序のために死刑制度は続行すべきだ」とします。間違って死刑にされた人も、その人自身には落ち度がなく、「ボールは思いっきり投げれた」はずだから問題ないと考えるためです。

・この態度は「厳しい」と言えるかもしれませんし、「現実的だ」とも言えます。現実問題として、人間のミスは免れませんし、冤罪などの不幸はなくならないでしょう。そういった問題を「神」で解決できるという意味では現実的なアイデアとも言えます。ただし、これで解決できるのは「神」を信じることができる人間だけであり、つまり、信仰がなければ解決できません。バハイは全体的に理性的な宗教ですが、この辺りになってくるとやはり「信仰」の問題になります。


※1 正確には「布教はするけど勧誘はしない」というスタンスで、自分たちの存在や教義はアピールするけれど、「入って下さい」と言うのは禁止されています。これは彼らが「理性による各人の主体的判断」を重視しているためです。ただ、日本のバハイでは「布教」もあまりされていません。なお、識字率の向上もこの一環であり、「理性的に判断してもらうためには、まず判断するために必要な文書が読めなければならないから」という面があります。

※2 この点は他宗教に比べてバハイの特異な点で、彼らは信者間での聖典解釈が異なることを恐れません。大抵の宗教では解釈が異なれば師匠の方に合わせるよう指導されますが、バハイでは「あなたにはあなたの人生経験があるのだから、あなたがそう解釈するのならそれでいい。私はあなたの解釈を参考にするし、あなたは私の解釈を参考にしてもいい」というスタンスを取ります。


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