小学四年生、西照寺を放火

「燃えるの見たい」小4放火?15世紀創建の寺全焼
 

 今日の宗教ニュース。まあ放火は危険ですし、15世紀の寺が燃やされたのは文化的、歴史的には大変な損失ではありますが、しかし、その一方、仏教的な話をすると、仏教ってのは実はあんまり古い寺とかにはこだわらないものだったりします。

 ……と、まあそう言ってしまうのも語弊があるのですが。もちろん仏教徒でもこだわる人はこだわると思いますし、寺を焼かれた住職さんは少なくとも経済的な意味でショックだとは思いますが、しかし、仏教には「あんまりこだわらない」マインドもあるということです。

 たとえばチベット仏教を国教とするブータン。ここでは歴史のある古い寺とかもバンバン壊されてると聞きます。壊して新しくキレイなのを建て直すのです。日本のお寺みたいに保護しないらしいのです。外部の人間が「文化財保護ですよ!」とか言っても、「えっ? なんでこんな古くて小さい寺を残さなきゃいけないの? もっと大きいの建て直した方が便利じゃん?」と考えるわけです。ですが、これは彼らの信仰が浅いわけではなく、むしろ信仰がはっきりしているからこそ、「寺は、ただの、寺じゃん」と考えているらしいのです。彼らにとって大切なのはもっと精神的なことであり、寺が古いことには特に宗教的価値を感じていないのです。

 また、「添乗見聞録」さんは、「世界遺産のない国、ブータンの魅力」のエントリーにて次のように記しています。


 以前よりは注目を浴びるようになったブータンですが、それでもまだ、その魅力は十分に知られていないように感じます。
 その一つの理由に、ブータンには「世界遺産」が一つもないことが挙げられるのではないでしょうか。世界遺産ブームが渦巻く昨今、世界遺産巡りこそ、ご旅行の目的とされている方も多いでしょう。そんな中で、世界遺産を一つも持ち合わせていないブータンは、今一つ、魅力に欠ける国と思われても仕方がないのかもしれません。(中略)
それにも関わらず、ブータン世界遺産が存在しないのは、実は、ブータンの人々自身が、「ゾン」のような政治的・宗教的建造物が世界遺産になることを強く拒んでいるからなのです。
 そして、その理由は全て、「物質よりも精神の充実」を拠りどころとした「国民総幸福量」という独自の概念に関係しています。(中略)
むしろ、観光地と化すことによって、自分達の心の拠りどころとする宗教的施設や生活に密着した政治的施設が、観光客でごった返すことを、何よりも恐れているのです。


 ここでもやはり歴史的建造物などの物質的なものよりも、その精神性を重視する傾向が見られるわけです。丹霞天然禅師も「寒かったから仏像を燃やした」とかやってますし、寺や仏像がありがたいからといってそれに執着するのは仏教の精神から外れているのかもしれませんね。


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 ……ま! とはいいましても、僕は仏教徒でもなければ悟りをひらいてるわけでもないので、寺を燃やされた住職さん本人が「15世紀に建てられた寺が燃えた? 別に大したことねえぜ、もう一回建てるからな!」と呵呵大笑するならともかく、外部の人間が「寺は燃やされても仏教的にはうんぬん」とかいうのもただの横暴なんですけどね!